日本SF大賞、星雲賞などいくつもの賞に輝く実力派・飛浩隆氏の書き下ろし新作SF短編『海の指』を特別公開!

2015年第46回星雲賞【日本短編部門(小説)】を受賞しました!

海の指 (2/8)(2014/10/14)

 空のどこかで遠雷のような音がした。

 町の方かなと考えたが、ごうんごうんという重機の音がうるさくて、和志はすぐに遠雷のことを忘れた。食べ終えた弁当を新聞でくるみ輪ゴムを掛ける。たばこを1本くわえてマッチで火をつける。鼻先にたちのぼる煙の向こうには砂浜があり、その先——陸と灰洋の境には、灰色の煙り——〈霧〉がたちこめている。いつものようにそれをぼんやり眺めていると、

「きょうも愛妻弁当かい。ええなあ」

「大溢さんだっていつも美味しそうなの作ってもらってるじゃないですか」

「こっちは結婚年数が25倍なんやで。ときめき度は40分の1や」

 【大溢/おおえき】はどっこいしょと言いながら隣りに腰を下ろした。ずんぐりした体格に真四角な顔、半白の頭を短く刈り込んで、和志と同じ作業服と長靴だ。

「どうです?」

 和志はたばこの箱を差し出す。太い指で1本抜いて大溢は自分のライターで火をつけた。金属製のごつっとしたライターだ。これは彼が【自分で】調達した品物だ。

 2人は並んでたばこをふかし、灰色の霧を見るともなく見ている。霧にはばまれてここからは見えないが、その向こうには灰洋がある。高い山に登れば、その果てもない広がりを見わたせる。泡洲の海岸を縁どって霧の境界線が延々と続き、泡洲全体をぐるりと取り巻いているのも。

 この〈霧〉は、近くで目を凝らせば微細な濃淡が絶えまなく動いていて普通の霧にしか見えないが、強い風が吹こうが、腕を突っ込んでかき回そうが、炎を浴びせようが何の反応もない。【ある方法】以外には、人間に干渉する術(すべ)はない。

 しかし〈霧〉はまた、泡洲で人間が生きていくために絶対に必要な【エリア】であり【資源】でもあるのだ。

 ごうんごうんと重機が動きまわる音は、休みなく続いている。

 波打ち際に横たわる巨大な像の回りで作業しているのだ。悍馬にまたがった半裸の英雄。逞しい筋肉やポーズがこれ見よがしに強調された、通俗的な造形。馬の口は嘶きの形にひらき、英雄の目は高揚に見開かれている。台座のないブロンズ色の像は、本来は直立していたのだろうが、ここでは横倒しだ。全長およそ30メートル。馬鹿げた大きさだ。どこかの独裁国家でもなければこんなものは作るまい。むろん泡洲にこんな像を製造する設備はない。しかしこんな重い像が灰洋を渡ってこれるわけもない。

 何台もの重機が像に取り付いている。バーナーや蟹爪のようなアタッチメントをつけたアームで像を少しずつ切り取っていく。切り取ってはダンプカーで運ぶ。この像は泡洲の「鉱山」なのだ。この像が砂浜に横たわってから早半年、重機たちは1日も休まず働き続け、像はあちこちがスリット状に切り取られて、巨大な鳥籠のようにも見える。

 この像は——人間が引きずり出したのだ。〈霧〉の中から。

 灰洋はあらゆるものを崩壊させ、呑み込む。

 ではどうして泡洲は溶かされてしまわないのか。

 和志は小学校でこう教わった——泡洲は熱したフライパンに落とした水滴なのです。水滴の下に薄い蒸気の層ができフライパンの熱を遮断するので、水の粒は涼しい顔をして鉄板に浮かんでいられます。同様に〈霧〉が、本来なら一瞬で陸を消滅させるはずの激烈な反応を緩衝しているのです。しかしフライパンの滴が熱と水のせめぎ合いの上に浮かんでいるように、陸と灰洋のあいだにも激しい拮抗があります。

 それが——と教師は言った。「振動なのです」と。

 ギターの弦をつまんで弾く。ビーンと振動して弦の輪郭が見定め難くなる。それが「霧」なのだ、と。

 荒っぽい例えだが要点は捕まえている。フライパンと水滴の間の蒸気の薄膜。通常の物質ではなく灰洋でもない、そのような中間的な相の上に、泡洲はぽっかりと浮かんでいるのだ。


 吸い殻を投げ捨て大溢が立ち上がる。

「そろそろ鳴らすかね」

「うっす」

 2人は海岸と町を仕切る堤防に上がる。放送中継車を二回りばかり大きくしたような車両が、エンジンをかけたまま駐車していた。車体には「泡洲音響工作社」とペイントされていて、ボディ側部のパネルに太いケーブルが何本も接続されていた。ケーブルは海岸に置かれた黒い衝立まで伸びている。人の背丈ほどの衝立は7、8枚が横一列になって海に面していた。

 2人は後部ドアから車両に入る。中は音楽スタジオのミキシングルームのようで、狭い空間に機材が詰め込まれていた。調整卓に座ると、正面の防音窓から海岸と〈霧〉、衝立が一望できる。

「午後はもう全部任せるわ」

「……うす」

 和志はこめかみから顎の下までを覆う、特別な形状をしたヘッドホンを装着する。両手に黒いグラブをはめる。カーボン繊維に金糸を編み込んだような材質だ。調整卓のスイッチを次々入れると、黒い衝立、すなわち平面スピーカーから音が鳴る。指がスライダを押し上げると音量が増していく。楽音ではない。どうかすると不快な音だ。ざっと砂を流すような、何千枚という瓦が傾れ落ちてくるような、巨大な虫がきりきりと翅をすりあわせるような、竹林を嵐が掻き回すような音。様々な音素材が、刻々とバランスを変えつつ、決してリズムには支配されず、しかしどこかに拍動が隠されているような、名状し難い音の渦、あるいは雲、もしくは波。車内のサーバにストックされた音響素材を、刻々とミックスを変えつつ、大音量で鳴らしている。いや【打ち当てて】いる。人間にではなく、〈霧〉に。

 風にはゆるがない〈霧〉が、見えない指で押さえられたようにぐっと引っ込み、それをきっかけに前後動を始めた。和志の表情は真剣だ。その集中力のほとんどは、窓から見える風景ではなく、ヘッドホンに向けられている。

「そうそう。うまいじゃないか。ちゃんと良く聴いてな」

 和志が聴いているのは〈霧〉に向けられた高感度マイクが拾う音だ。〈霧〉はぶつけられた音を返してくる。しかし元の音とは多少違っている。和志たち技術者はそのかすかな差異を聴き取る。ソナーの反射音の中に敵の艦影が見えるのと同じ。和志は平面スピーカーの架台にコマンドを送り、上下に振った。それに煽られるように、霧がはためいた。

「見えました。たぶんこれです」

 和志は右手をスライダから離し、胸の前で何かをなでまわすような仕草をする。黒いグラブはヘッドホンと連動し、耳で聞いた反射影に「ふれる」感覚を生じさせる機能を持っている。

「もう少しこっちに寄せないと掴めないな。でもこうしていると——本当に【灰洋/うみ】の中を直接まさぐっているみたいだ」

 音で揉まれた〈霧〉は海岸に打ち寄せる波のように動きだした。

「いいから集中しな」

「いや、しゃべってた方が集中できるっていうか」

 和志の手が箪笥の引き出しに手を掛ける時の形になった。

「志津子さんが頭に浮かぶからかい」

「足、踏んでいいすか——ああ、いいぞ」

 〈霧〉が寄せては引くのを繰り返しているうち、霧の中に四角い箱の形が浮かび上がってくる。輪郭は不明瞭だ。霧で見えないのではない。まだ形ができあがっていないのだ。

「いいぞ……」

大溢が囁く。

「見えてるか? 灰洋の中の本体が」

「見えてます……」

【指を引っかけるつもり】でやれ。そうして引き寄せるんだ。母ちゃんをいかせるときみたいに慎重に……大胆に」

「いや、普通そこは釣りの喩えでいくとこじゃないすか」

 霧が寄せては引くたび箱の形がくっきりする。冷蔵庫のような形の金属製キャビネット。と、カメラが合焦するようにすべての輪郭が正確に切り立った。狙いすましていた大溢が、どん、と拳でスイッチを叩く。強烈な音の【連打/フラッシュ】

 一瞬、立ちこめた霧が吹き払われ、海岸と灰洋が目の前に広がる。待機していた要員が駆け寄り、フックとワイヤーで、箱を泡洲の側に引き寄せる。跳ね上げたカーテンが戻るように、どっと霧が殺到し、また視界は閉ざされる。

 和志の背中をどん、と叩くのは大溢だ。

「ようやった。こりゃ【医師/せんせい】たちも喜ぶわ。医薬品はおいそれとは製造できんからなあ」

「はあー、緊張したあ」

 和志は調整卓に突っ伏す。

「腕を上げたな。もう昭吾にも見劣りせん」

 言ってから大溢はしまったと首をすくめる。

「ごめん、そういうつもりじゃないんだ」

「いいっすよ。比べられるのは慣れてるんで。いらいらしてもしょうがないし」

(ほんとにいいの?)

 暗がりの中で、和志の身体の下、白い裸体の志津子が目を合わせずにそう問うた。不意にそれが思い出された。

(あなた、昭吾の後輩なのに)

 裸体は細くしなやかで、言葉と裏腹に全身が和志を誘っていた。触れた場所は熱く濡れ、今はもうない海の匂いがそこにだけはあった。

(聞いてるでしょ、噂)

(……知らない)

 和志は志津子の両脚に自分の足をからめ、動けないようにした。

 いや、その逆だっただろうか?

(聞いてるくせに)

 すっと閉じた目は細く長い。和志はそこを若い舌で舐めた。志津子が身体をよじる。

「こう言っちゃなんだがな、昭吾は、その、いけすかん野郎だったよ」

「……ですかね」

 死んで良かった——大溢は今にもそう言いそうな顔だった。

「お前がいてよかった、みんなそう言っとる」

「さあ、どんどんやっちゃいましょう」

 和志は起き上がり背を伸ばす。

「まだまだ注文が残ってます——ええと次は、合成ゴムか。でも大溢さん?」

「なんだい」

「いったい誰がこんなことに気づいたんでしょうねえ。灰洋に溶けてしまったものを、音で呼び戻せるなんて。普通、思いつかないでしょ」

「いやあ、思いつかないほうがおかしいさ」

大溢はなにを今さら、という顔をしている。

「ここで暮らしてりゃ、いつかはそこに思い至るだろ」

「?」

 大溢はあきれ顔でため息をつき、かんで含めるように教えた。

「昔から、こっちも『音』でやられてるじゃないか。〈海の指〉だよ。あれも『音』だろうが」

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この『海の指』から『銃夢』木城ゆきと氏がインスパイアされた読み切り『霧界』(2014年10月28日発売「イブニング」22号掲載)を公開中!

木城ゆきと『霧界』

プロフィール

飛浩隆(とびひろたか)
日本SF大賞、星雲賞などいくつもの賞に輝く実力派SF作家。
『象られた力』で日本SF大賞を受賞。